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プロフィール

私のこれまで

今思い返せば、私が育った環境は機能不全家族という家庭だったと思います。
ある時、「母が亡くなったとき、私は子供にどういう姿を見せるのだろう?」という疑問がふと、胸に沸き上がってきました。
私の頭に浮かんだ私の姿は、正直言って、とても人に言えたような代物ではありません。
「このままでいいのだろうか?」
「こんな母親を持った子供たちが可哀想」
「だからと言って、テレビで見るようなお別れのシーンは絶対無理」・・・
ちょうどその頃、反抗期を過ぎつつある自分の子供たちや周りのママ友が日々繰り広げていく世界と、私自身の子供時代の記憶の世界があまりにもかけ離れていて、もちろん、時代や物質的な変化は理解できますのでそれではなく、何を思い、何を気にして、何を頼りに生きていたのか…、そのギャップの大きさに気付くたびに私の精神は大きく翻弄されていました。

そんな中、大好きなミュージシャンが歌う“僕は傷ついたんだ~”という歌詞がPVの画像、おそらくビルの屋上から下に落ちていくときに見るであろう景色のイメージアニメーション画像と共に、私の目と耳と心に飛び込んできました。
「そうか、私は傷ついたんだ」
子供時代の記憶の中ですべてに共通しているものが、悲しかった、寂しかった、そんな報われない思いたちで、そこの根底にあった“私は傷ついた”という感覚をその時初めて自覚したのだと思います。
ひとことに機能不全家族と言っても様々なケースがあり、詳しくは検索していただければ…と思いますが、私の場合、出生の否定、家庭が常に緊張状態、不干渉などが大きかったと思います。結果として、私の世界は自己否定や希死念慮がベースになっていました。

そして、私は夢を見ました。
娘とバス停にいると、血の付いた包丁を振り回す男がこちらに向かってきています。道には横たわる人の姿が見えます。周りの人々は一斉に逃げ出します。私と娘も逃げ出します。
夢なのでね、話の流れ的におかしなことがいっぱい出てくるのですが・・・、
そこで、娘が見当たらなくなるんですよ。だから探し始めるのですが、一瞬、娘の姿が見えた気がしたので、そちらの方に向かっていくと、包丁を持った男も現れます。そこで、娘を追いつつ逃げるのですが、ふと逃げるのがバカバカしくなりました。
「なんで? なんで私、逃げてるんだ?」
「今まで散々死をイメージしてきたのに、なんで逃げてるの?」
「むしろチャンス」
そんなことが浮かんだのです。
しかし、すぐに娘のことが浮かび、そこで目が覚めました。

これをきっかけに、私は自身の幼少期を題材にした本を作成しました。
今までモヤモヤとしていた自分の記憶に、夢の要素を加えることでひとつのストーリーが浮かんだのです。

そして、せっかくなので、できたお話を形にしようと思い、自費出版の会社に製本をお願いすることにしました。
親切な編集者の方で、私の粗雑な物語を読んでくださり、アドバイスをくださいました。時には、「ここは文脈的な必要ないです」と、エピソードひとつを丸ごとバッサリされることもありました。
そうして文章をブラッシュアップしていく中、私は常に、出来上がった本を胸に抱きしめること、寂しかった私を思い切り胸に抱きしめてあげることを目標にしていました。
そして、いざ、出来上がり、本が手元に届いてみると・・・、
もうその時点では満足してしまっていたのでしょうね、一応パラパラと中身は見て、並べて写真は撮ったものの、早々に片付けて、今は部屋の片隅で眠っています。

で、その本の製作途中、
物語の中では音楽の要素をたくさん盛り込んでもあり、音楽の持つ力に非常に助けられてもいましたので音楽療法に興味を持ちました。
そして、音楽療法を学ぶうちに、音叉セラピーというものがあるということを知りました。

音叉は、非常に興味深く、スピリチュアルなものなのかと思いきや物理的な側面もあり、音叉セラピーを理解しようとするうちに、なぜ自分が物語を描いたのか、本という形にしたかったのか…も、より深くわかってきました。
施術でチャクラを整えるので、チャクラとは何なのかを学ぶと、精神の成り立つ構造がわかり、自分の状態を客観的に分析することができました。そして、本を作る作業(自分の幼少期の記憶を自分の胸に抱きしめる)は、“自分で自分を癒していたのだな”ということに気が付きました。
また、地方から東京の出版社さんに出向いたり、編集者さんとのやり取りや、作成費用などなど、自分のために時間やお金、他人の手を借りるという行為は、今までの記憶に新しい要素が加わることとなり、心理や脳の特性の分野では“記憶の構造が変わる”ということでした。
すると、このすべての工程を通して、“今の自分には今まで(機能不全家族で育ったことも)のすべてのことが必要だったのだ”と思えるようになりました。
「自分にはそれだけの価値があるのだ」
「自分にそれだけのことをしていいんだ」と今は言い切れます。

しかし、音叉セラピーは私にとって優しいだけではありませんでした。
セラピストとしてやっていくには、誰にでも同じように愛をもって施術するという課題を突き付けられました。
そうです、母への思いがよくなかった私にとって、“誰にでも”とはかなりの難題でした。
しかしそれも、整った周波数帯ではチャクラや心理、脳の特性など、必要な情報は次から次へと集まってきますし、その為に行動する場面も訪れます。さらに、その振動は頑なだった私の心を緩ませてくれました。
“母は私にとって必要な経験をさせてくれていたのだ”と腑に落ち、今となっては、“私が母の子供ではなかったら、母はもっと楽しい子育てをしていたかもしれない”、“母には母の持って生まれた課題があり、母もそれに取り組んでいる最中なのだ“、”長い年月をかけてずっと母の役割を果たしてくれていたのだ“と感謝できるようになりました。

また、私にはスピリチュアル的な能力やサイキック能力などはまったくありませんので、“そんな私が音叉セラピストになってもいいのだろうか?”、“なったところで、何を伝えれるのだろう?”という疑問がありました。
実際、私は施術を受けたところで体感もさほどありませんし、急激な変化も感じませんし、感動も特にはありません。
しかし、そんな心配は必要ありませんでした。
なぜなら、上記のような精神の統合に加え、肉体の変化が明らかだったのです。
まず、上顎の骨が隆起するほどの食いしばりが消え、食道が締め付けられることもなくなり、呑気症、ドライアイ、便秘、アトピーなど…、今は消えています。

そして、私を勇気づけて応援してくれる存在がもうひとつ・・・
それは、今私たちが生きている地球です。
おやおや、ここにきて急にフワフワな発言が出てきましたね…笑笑。
ですが、地球が「そうして」って言っています。
人間の放つキラキラと輝く豊かな色彩のエネルギーで地球上をいっぱいにして欲しいそうです。

環境汚染や食品ロスなど、人間は地球に害しかもたらしていないと思われがちな昨今、人間は地球にとって何のメリットもない存在なのでしょうか? 地球は人間が嫌いなのでしょうか? 本当にそうでしょうか?
地球は、人間のすることなど一瞬にして壊してしまう力がありますし、本当に人間が地球にとっての害ならば、地球は一瞬にして人間を滅ぼすことができます。
でも、そうはしていないのです。
むしろ地球は、今でもなお豊かな恵みを与え続けてくれています。
鉱物(石)は人間に力と癒しをもたらしてくれていますし、植物は、話しかけると緑を輝かせ綺麗なお花を咲かせ、美しい音楽を奏でるとそちらに近づいていこうと葉や枝を伸ばします。そして、薬や癒しとして自身の叡智を人間に提供してくれています。動物でも。乳牛はクラッシック音楽を聴くとたくさんお乳が出るようになると聞いたことがあります。
地球を含め、地球上のすべてが、人間の放つ響きや作り出す音、リズム、流れが大好きなのです。


ということで、
今、私はここにいます。

読んでいただき、ありがとうございました。

雅‐masa-

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